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NOTES

ESSAY VOL.03

2015.05.28 text by 草刈民代

『5月3日、マイヤ・プリセツカヤさんが亡くなった』

5月3日、マイヤ・プリセツカヤさんがお亡くなりになった。享年89歳。
プリセツカヤさんは、20世紀最高と謳われたロシアを代表するバレリーナ。

初めてお目にかかったのはまだ20代の頃。プリセツカヤさんが日本で公演をされた際に、楽屋でご挨拶をさせていただいたのが最初だった。その後、プリセツカヤさんが日本でご覧になった公演に私が出演していたり、一緒の舞台に立たせていただいたり、交流が続くようになった。

プリセツカヤさんが長年踊られていた「カルメン組曲」を踊った時のこと。その公演にはプリセツカヤさんも出演なさっていたので、直接リハーサルをしていただくことができた。この作品は、ソビエト連邦時代、つまり表現の自由がなかった時代に、プリセツカヤさんが自らプロデュースをし、体制に屈しない意志を貫き通して創られた特別な作品。「瀕死の白鳥」だけでなく、このカルメンもプリセツカヤさんの十八番だった。

ジーンズ姿でリハーサルをしてくださったプリセツカヤさんの仕草、顔つき、その華やかな迫力。唯一無二のスター。アンナ・パブロワ以来の、世界を制覇した大バレリーナだった。

芸術家でありながら、どこか大衆的。真のスターなのだ。アンナ・パブロワの映像を観た時も「大衆性」を感じたが、プリセツカヤさんにも同質なものがあった。私が感じるその大衆性とは、表現の技術やジャンルすら超越した「自由さ」。そこにこそ人々は憧れを抱くのだ。人は何かに囚われているうちは自由になれないが、天才は突出している部分において本当の自由を知っている。表現することは「自由なこと」と思われるかもしれないが、実は「自由」を感じさせる表現など、そうそうできることではないのだ。技術も、表現のジャンルをも超越した魔法のような領域。プリセツカヤさんは、正にそれ体現した人だった。

普段のプリセツカヤさんも実にチャーミングだった。今でも思い出すのは本番前日の舞台リハーサルの時、同じ公演に出演していたファルフ・ルジマートフ氏のリハーサルを客席でご覧になり、席を後にしながら「ファルフは素敵ね!」と言った時の幸せそうな顔。そこには、女性らしい可愛らしさと、芸術家としての風格の両方があった。愛用の化粧品は、資生堂のクレ・ド・ポーのクリーム。何かお礼がしたいと、プリセツカヤさんと親しい通訳の方に相談をしたら、そのクリームが良いとおっしゃる。プレゼントに化粧品?ちょっと意外だったが、そのクリームを差し上げたら、とても喜んでくださり、溌剌とした顔で「このクリームは最高。とても綺麗になるのよ」とおっしゃった。とても現実的な方なのだ。そして、大のお気に入りは100円ショップ。100円であんなに良い商品が変えるなんて素晴らしい」と力強く語っていらしたのが印象深い。日本にいらっしゃる度に日用品を沢山買われていたそうだ。

プリセツカヤさんの自由さは、彼女の天才的な踊りの資質を開花させた、精神的資質でもあった。

プリセツカヤさんは子供の頃、スターリンによる粛清で父親を銃殺されている。映画女優だった母親も8年の服役を余儀なくされた。理由はアメリカに移住した親戚がいた、というだけの事だった。そんな経歴を持ちつつも彼女はその素晴らしい才能を開花させていく。あらゆる国賓の前で踊る、国の宝となっていくのだ。しかしその一方で、体制というものに屈せず、妥協を知らない彼女は劇場の幹部や政府当局から執拗に追い回され、行動を制限されるようになってしまう。

自由な精神を持つ天才は、ソビエト連邦の制約のなかで育ち、表現の自由、本物の自由を勝ち取るために、実は闘いながら生きていた。以下、プリセツカヤさんの自伝「闘う白鳥」(文藝春秋刊)から引用させていただく。プリセツカヤさんという人を象徴している一文である。

「言葉では、言い表しにくい良心、言い換えれば、羞恥心とでも呼ぶべき物がある(誰にでもあるとは言えないが)。人間にとって、その感情は生きることの妨げになるか、それとも手助けになるか? 今になってわかることは、どうやらそれは何の得にもならにということだ。恥知らずな連中は繁栄し、平穏無事に暮らす。良心的な人間は苦労するばかり・・・・」

最後にお目にかかったのはミュンヘンだった。ドイツに住んでいるのは「医療が素晴らしいから。ここにいれば、世界一のドクターに診察してもらえる」とおっしゃっていた。私がバレリーナを引退し女優になると報告すると、あの、お腹の底から発せられた芯のある低い声で「素晴らしい!貴方ならできる」と言って下さった。その説得力のある太い声を聞き、「自分が選択したことに対して、いたずらに不安を持ってはいけない」と思ったものだ。最後におっしゃっていただいた言葉は今でも忘れられない。「今なぜここにいるのか、常にそれを考えなさい」。凝縮された深い言葉だ。

プリセツカヤさんの指導は、おっしゃること一つ一つが的確で明確だった。その指導を通して、プリセツカヤさんの表現の真髄を垣間見せていただいた。

「カルメン組曲」を踊った公演では、一部に私とイルギス・ガリムーリン氏が「カルメン組曲」を。二部ではプリセツカヤさんがアレクセイ・ラトマンスキー氏と共に「牧神の午後」。そして三部はファルフ・ルジマートフ氏が「シェヘラサード」を踊った。7回公演のうちの最後の3回、東京公演の初日。プリセツカヤさんは「カルメン」の上演中に、舞台袖にあったバーに捕まり、ウォーミングアップをなさっていた。プリセツカヤさんの「カルメン」を、プリセツカヤさんの視線を感じながら踊る大変さ。とても緊張した。40分ほどの作品の上演中、何度か舞台袖に引っ込んでは待機する。その度にウォーミングアップをしているプリセツカヤさんの横を通る。そして遂に、プリセツカヤさんが寄ってきて「今のところはもっとこうするとニュアンスが出る」と、ジェスチャーを交え、一言、二言で的確に指示してくださったのだ。

その重み。至福の時。

プリセツカヤさんは、多くのダンサーたちに影響を与えている。私もそのうちの一人であったことを有難く思う。素晴らしい経験、掛け替えのない思い出だ。

小学校3年の時、プリセツカヤさんの「瀕死の白鳥」をテレビで見て、表現の凄さに圧倒された。それはバレエを観て衝撃を受けた最初の出来事だった。バレエを習ってまだ1年ほどしか経っていない、ある休日。私はその踊りを観ながら、「これがバレエなのか」と驚き、新たな発見をした思いだった。私が「バレエの稽古」としてやっていることは「まだバレエではない」ことを知った。そして、「バレエを続けていったからといってこんな風に踊れるのだろうか?」と疑問も持った。稽古を続けたからといって、プリセツカヤさんのように踊れるわけではない。その疑問は正しかったが、そこから表現することに対する憧れを持つようになったのは、紛れも無い。

あれは、2年前なのか、3年前なのか。プリセツカヤさんが来日されるため、パーティーが催されると連絡を受けた。「多分これで最後だろうから、みんなで集まろう」。ロシア語通訳の清水史子さんから電話があった。日取りも決まり、私も出席することにしていたが、突然、プリセツカヤさんが家の前で転んでしまい、足を骨折して来日できなくなったという知らせが来たのだ。2006年秋にプリセツカヤさんが高松宮殿下記念世界文化賞をご受賞されたときも、「ぜひタミヨに、パーティーに出席してほしいとマイヤさんがおっしゃっているのよ」と清水さんから連絡を受けたのだが、残念ながらその時私は韓国国立バレエでマッツ・エックの「カルメン」に出演するためにリハーサル中で、日本にいなかった。
 この写真は、2006年春頃に行われた光藍社主催のガラ公演の時のもの。プリセツカヤさんはベジャール振付の「アヴェ・マイヤ」を踊られた。

永遠のプリマ・バレリーナ。

プリセツカヤさん、どうぞ安らかにお眠りください。

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