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今月のお話 第一回

2014.03.08text by 草刈民代

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今年の2月も寒かった。ところで、2月といえば受験シーズン。

 

私の受験の記憶といえば幼稚園の頃。いわゆる「お受験」用の塾に通っていた頃だ。親としては目指したい学校があったようだが、なぜか途中で方針を変えたようで、年長組に上がる時に他校の試験を受け、編入のような形で短大(いまは大学に変わっているらしい)まである学校の幼稚園に入園したのだった。

 

小学生の頃は楽しく学校に通っていたものの、中学に上った頃から急に、「掘り下げて物を考えたい」というような欲求に駆られるようになった。自分のなかで理屈が通らないことを受け入れられない(というか、受け入れない)ようにもなってきた。そもそも、学校自体が自分の個性と合っていないのではないか?学校で学ぶことすべてが、バレリーナになりたい私に必要なのか?私にとって必要な科目は、音楽と英語くらいで、その他の科目は必要か?必要のない科目を勉強する必要があるのか?などなど。その不満をぶつけるために、「自分で学校を選んだわけではない」と、よく母に不満を言っていたなぁ。その頃の私、かなり面倒くさい生徒だったに違いない。

 

その混沌とした時間を通過したあげく、私は高校に上がってすぐに学校を辞め、バレエに専念することになる。あの頃、楽しく学校に通っていて、学校に行くことに何の疑問も持たなかったら、どんな人生を歩んでいたのだろう。多分、バレリーナではない道を歩んでいたのではなかろうか。

私は小学校2年でバレエを始めた頃から、おぼろげながらも将来バレリーナになりたいと思っていた。小学校4年生から、作文には「将来バレリーナになりたい」と書いていた。でも、よく考えると、それはかなり特殊なことだ。そんなに早くから自分の道を決められる人は少ない。小学生からずっと同じことをやり続けられるなんて、稀なことでもある。

 

と、書いているものの、これは夫の受け売り。当の私は、踊ることに取り憑かれて43歳まで続けて来られたわけだから、そのことを客観視する視点が育つはずもない。

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踊りに「取り憑かれていた」私は、踊りを止めて初めて「稽古しなくても良い」という開放感を味わった。踊っている時は「稽古しなくても良い」日があっても、その後は、稽古をする日々が待っている。休みすぎては、コンディションを戻すのに時間がかかる。その日々に開放感はない。ある意味それは、舞台上で自分を開放することと引き換えにあるようなものだったのかもしれないけれど。

 

ダンサーとは、踊ることによって、自分を開放する者をさす。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じやるなら、踊らにゃそんそん」

まぁ、こういうことですかね。

 

バレエの技術は、厳密、かつ厳格な精神性がなければ身につくものではない。でも、その対極にこのメンタルは存在するのだ。これがない人は、人を惹きつける踊りは踊れない。古今東西、良い踊り手は厳格さとユーモアを持ち合わせている。私も、多くの先達のバレリーナのそれを目にし、その魅力に触れてきた。

 

今、踊ることに関して思い残すことは何もない。しかし、次に踊りと同じくらいやりたいことが見つかるかというと、それはなかなか難しい。芝居は好きだが、経験が浅いし、自分のなかではまだまだ「踊り」とはイコールにならない。やはり、子供の頃から続けてきた時間の積み重ねと、その経験はかなりなもので、そうそう簡単に、それに匹敵するようなことが見つかるわけはないのだ。

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思い起こせば、毎日毎日、「やらねばならぬ」という意気込みで生きていた。その意気込みがなければ、日々の稽古や舞台をこなすことができなかった。でも、「やらねばならぬ」の対象が消えてしまうと、その気持をどこに持って行ってよいのかわかならくなるのも事実。踊りを止めてからは、その「やらねばならぬ」の対象を求めて、かなりいろいろなことを試みた。

 

私は何事も一点集中型だ。何かにハマると、そのことしか頭になくなる。そしてせっかち。早く結果を出したがる。何事にも「更に突進!この先に私を待っているものがあるはずだ!」と突っ走る猛女であったが、さすがにこの年になると、こういう自分に疲れてきた。

 

だから、というわけではないが、昨年秋から数ヶ月ハマっていた本がある。テーラワーダ仏教長老、アルボムッレ・スマナサーラさんの著作の数々。上座仏教とは、お釈迦さまの教えを学び、伝える仏教。あくまでも宗教ではない、という見解で語られる話はとても興味深かった。「目から鱗」ということも多々あった。昨年秋の地方公演の移動時間に読み始めたらとても面白く、止まらなくなり、ハマり症の私は長老の著作のうちの23冊を一気に読み、おまけに長老が指導なさる瞑想会にも参加してしまった。

 

本を読むまでは、瞑想会に行ってみることなど想像もしていなかったが、知りたがりで一点集中型の、結果を急ぐ質の私は、「思い立ったが吉日」とばかり、思い立ってしまうと鉄砲玉のように飛んでゆく。こんな自分に疲れているはずなのに。

 

夫はその時の私をみて「今度はどこに行くのだ!?」と心配した。そして、その様子を「プチ出家」と呼んだ。

 

「出家」ではないんだけどね。

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