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2008.03.20 
最後の『白鳥の湖』 by草刈民代

『踊り』ではなく、『話し』

最後の『白鳥の湖』

2月3日。大阪フェスティバルホールで私にとって最後の『白鳥の湖』の公演が終わりました。これでもうオデット・オディールを演じることはありません。今回は1ヶ月の間に7回も公演がありましたので、「無事に終わってほっとした」というのが今の気持ちです。1ヶ月間で7回『白鳥』の全幕を踊るのは、結構ハードなのです。


私は、長年日本で活動をしているからこそ、一番多く踊ってきた『白鳥の湖』では、ぜひ最後の公演を皆さんに見て頂きたいという思いがありました。7回で1万8000人のお客様に観ていただいたことになりますが、どの公演も、本当に忘れ難い思い出となって、生涯私の心の中に残ることと思います。

お客様の熱気、集中力、オデットの登場の場面では、毎回毎回、恐ろしいほどの静寂の中に登場しました。あのような緊張感は今まで味わったことがありませんでした。公演が始まる随分前から、私自身、最後ということで力が入っていたし、今までにないような重圧感もありましたが、挑戦してみて本当に良かったと思っています。

実は、『最後』と告知して踊るのは、ものすごく覚悟のいることでした。それは、『最後』にすることに対しての覚悟という意味ではありません。『最後』ということをお客様にお知らせして舞台に立つことが、私にとっての挑戦となっていたのです。大袈裟な言い方をすれば、それは、ダンサーとしての私の生き方、考え方の表明ということにも繋がります。

そのような個人の思いを表明して、公演に出演することは、実は特別なことだと思うのです。そして、『最後の白鳥』と言って踊るからには、自分の持っている力以上のものを出したいと思うくらいの、強い気持ちもありました。

アラ・オシぺンコ先生との出会い

オシペンコ先生とアラ・オシぺンコ先生と

今回のツアーでは、素晴らしい出会いに恵まれました。今シーズンからレニングラード国立バレエに教師として参加されている、アラ・オシぺンコ先生との出会いです。オシペンコ先生は、元キーロフ劇場のプリマ・バレリーナだった方です。ヌレエフが亡命する前には、パートナーも務めておられたそうです。私よりも上の世代の日本人の先生方にとっては、キーロフ劇場の日本公演で『石の花』を踊られたバレリーナとして、多くの方々の記憶に残っています。(ちなみに、オシペンコ先生は『石の花』の初演を踊られたのだそうです)

今回の『白鳥』に向けての準備リハーサルにおつき合い頂いた佐藤勇治先生にも、オシペンコ先生に指導をしていただいたということをお話しましたが、佐藤先生も「オシペンコさんは素晴らしいバレリーナだった」というお話をされていました。

1月2日から公演終了日まで、オシペンコ先生には本当にお世話になりました。まるで、長年教えていただいている先生のように、愛情を持って教えて下さいました。

「ターニャ」とは私のこと

毎回、本番前にはチョコレートを持って楽屋に来てくださり、「ターニャ、落ち着いてね」という言葉とともに、その日の注意事項を伝えてくださいます。「ターニャ」とは私のことで、初めてのリハーサルの時に名前を聞かれ、「タミヨ」と答えたのですが、ロシア人の先生にはなじみのない、その名前を覚えることができなかったようで、次の日から「ターニャ、ターニャ」と、私のことを呼ばれていました。
初め私は、先生が誰のことをお呼びなのかわからなかったのですが、次第に「私のことだ」とわかってきたのです。

「ターニャ」とは私のこと

オシペンコ先生は、知的で、エレガントで、ユーモアがある、素敵な女性です。
「今日は頭で踊りなさい」「あなたにしか出来ないこと、見せられないことを十分に出し切りなさい」最終幕の前に、ストレッチをしていた私の脇を通りながら、オデットの出の音楽を口ずさみ、感情たっぷりに手振りをしながら、「emotional!」とおっしゃって客席に向かったこともありました。

白鳥の流麗に動く腕

先生とのリハーサルで、記憶に残ることは沢山あるのですが、笑い話のようで、笑い話では済まされない大きな発見が一つ。

私が初めてバレリーナが演じる白鳥を見たのは、小学校二年生の時、テレビ中継で観た、マイヤ・プリセツカヤの『瀕死の白鳥』でした。マイヤ・プリセツカヤは身体能力に優れたバレリーナで、ロシアの至宝として世界的に活躍をしたバレリーナです。

私の拙著『バレエ漬け』にも書きましたが、彼女のジャンプ力、身体の柔軟性は他に類を見ないほどでした。当然のことながら、私は、全盛期の頃の踊りをビデオでしか見ていませんが、初めて彼女の『ドン・キホーテ』の一場面を観たときには、言葉にならないほどの衝撃を受けました。ひっくり返ると思ったほどです。もう22、3歳になっていた頃だと思いますが、その後ビデオを観て、あの時以上の衝撃を受けたことはありません。

しかし、思い起こせば、それ以前にプリセツカヤの踊りから凄まじい衝撃を受けていたのです。小学校二年の私は、テレビで『瀕死の白鳥』を踊る彼女の、流麗に動く腕を見て違和感さえ覚えました。人の腕の動きとは思えなかったからです。それが鮮烈に焼き付いていたせいかどうかはわかりませんが、自分のイメージのなかに、『白鳥』の手振りはプリセツカヤの動きが正しいと思い込んでいた節があったのかもしれません。

私は、自分が『白鳥』を演じるようになって、かなり意識して腕の動きを練習しました。初めの数年間は、踊るたびに腕が張り、そのために肩や首までガチガチに固まってしまい、その張りや痛みと格闘するように稽古をしていました。やはり、『白鳥』の腕が出来るまでには時間がかかるのです。そういえば、初めて『瀕死の白鳥』を踊った時も、かなりの腕の疲労感でした。たった3分程度の踊りなのに、その間、休みなく白鳥の手振りをすることは、想像以上に大変なことでした。

「ああ!!そういうことか!」

リハーサル中に、オシペンコ先生から「もっと腕を使って」という注意を受けた時、私はより肘の動きを強調するように腕を動かしていました。「もっと腕を使いなさい」と、何度も注意を受けましたが、その都度、「肘を使いなさい」と言われているものと勘違いをして、より肘の動きを強調するようにしていたのです。

1月12日の本番、私はオシペンコ先生の注意を守り、登場から肘の動きを意識して腕の動きを見せるように踊りました。オデットの登場も、引っ込みも、これでもかというくらいの意識を持って、肘の動きを意識して腕を使いました。

オシペンコ先生レッスンを受ける草刈民代

終演後のカーテンコールのあと、オシペンコ先生は私のところにいらっしゃり、「一幕(二場)のオデットの引っ込みのところは、もっと大きく腕を使った方が良いのではないかしら」と話始めました。そして、ついにこのようにおっしゃったのです。「プリセツカヤは忘れて、もっと腕を大きく使いなさい!」そして、腕全体を大きく
羽ばたかせました。

「ああ!!そういうことか!」勘違いをしていたと知ったのは、その時です。

特異なものに対する憧れ

今まで、意識をしないまでも、私のなかでの白鳥の手振りの基準は、プリセツカヤの腕の動きだったようです。プリセツカヤの動きは、肘の関節がないのではないかと思ったほどの滑らかな動きで、あまり腕全体を大きく動かしません。もちろん、腕を大きく羽ばたかせる振りも取り入れていますが、その大きな手ぶりと、腕全体の高さはあまり変えずに、肘や手首の柔らかさを強調して、羽を表現している動きも取り入れています。その動きこそが、プリセツカヤの『腕の表現』の特徴と言えるものなのです。

私は意識的にプリセツカヤの真似をしようとしていたわけではありませんが、潜在的に正しいと思っていたあの腕の動きを目指していたことは否めません。

初めて見たときには、人の動きとは思えない違和感を感じましたが、いざ自分が白鳥を踊るようになると、練習を重ねるうちに、確かにあの腕を目指したい、という意思が芽生えました。やはり、特異なものを身に付けたい、という願望からでしょうか。でも、もしかしたら、ある意味それは、身体表現者の宿命のようなものかもしれませんね。

沢山回れるようになりたい。
高く飛べるようになりたい。
高く足を上げられるようになりたい。

バレリーナを目指す少女達は、みなそのような特異なことに憧れます。私が腕を柔らかく動かせるようになりたいと、繰り返し練習をしていたのも、単に特異なものに対する憧れからだったのかもしれません。

『腕を使う』と『肘を使う』

『腕を使う』と言われたときに『肘を使う』と誤って解釈してしまうことも、思い当たる理由があります。

初めて『白鳥』のコール・ド・バレエを踊ったのは中学三年の時、橘バレエ学校の学校公演でした。その後、16歳で牧阿佐美バレエ団に参加し、コール・ド・バレエの一員となりました。それから22歳で全幕のデビューをする間に、『大きな4羽』や、卒業公演でのオデットなど、『白鳥』の公演では、色々な役を踊りました。思い起こせば、その数年間の間に、二幕や四幕の練習の時には、浴びるほど「肘を使いなさい」と言われ続けました。

レッスンを受ける草刈民代

肘を使おうと意識をして白鳥の手振りをすれば、おのずと腕も意識的に動かしていることになります。その、大昔にすり込まれた記憶が、オシペンコ先生の注意をきちんと聞き取れなかったことに繋がっていたわけです。よく考えれば、「腕を大きく使いなさい」ということと、「肘を使いなさい」とでは、目指すことに大きな違いが生まれます。

昨年、2007年パリで『瀕死の白鳥』の稽古をしてくださった、ギレーヌ・テスマール先生にも「白鳥は大きな鳥だからもっと大きく腕をはばたかせたほうが良い」という注意を受けました。最終的にテスマール先生は、「もっと、白鳥の野生的な感じが出たほうが良い」という言葉で、私の腕の動きを変えるように導いてくださいました。テスマール先生も、プリセツカヤの真似、とは思わなくとも、私の腕の動きを変えたほうが良いと思われていたに違いありません。

次の公演から、私は腕を大きく動かすことを意識して踊りました。
それ以来、腕についての注意はなくなりました。

大きな鳥の羽が連想されるような手振り

公演後、多くの人から「腕の動きが美しかった」とか「腕の動きが変わった」と言っていただけたのですが、それには理由があったわけです。私は腕が柔らかいほうなので、これまでにも『白鳥』を踊るときに、腕の動きを誉めていただくことはありましたが、今回の反応は今までとは違ったものに思えました。



何日か経って聞いた話ですが、オシペンコ先生の師でもあった、ワガノワ(ロシアの歴史に残る、有名なバレエ教師)は、手の表現に関してとても厳しかったそうです。ワガノワの白鳥の手振りは、大きな羽が内面を反映したものとして表現されるべきという考え方で、実物の白鳥のように大きな鳥の羽が連想されるような手振りをするべきだと、オシペンコ先生はワガノワから習ったそうです。

ワガノワはサンクトペテルブルグで活躍をしていた教師ですが、サンクトペテルブルグでは、プリセツカヤの手の動きはご法度だったそうです。(ちなみにプリセツカヤはモスクワのボリショイ劇場て活躍していたバレリーナです)これは、他の地域ではご法度になるほどの特徴的な動きや表現を編み出した、プリセツカヤさんの凄さを物語っている逸話でもありますね。

教師という芸術家

私は、自分にとっての『最後の白鳥』で、やっと『白鳥の湖』という作品のことを学べたような気がしています。それは、オシペンコ先生の存在がなくてはあり得ないことでした。最終公演後、私はオシペンコ先生に「いろいろなことを教えていただいて、ありがとうございました。本当に感謝しています」と申しあげたら、先生はこうおっしゃいました。

「あなたにとって良かったかどうかはわからないけれど、私はあなたとのリハーサルを本当に楽しみました。あなたは私の言ったことをなんでも聞いてくれるから、私の方も勉強になったことが沢山あるわ」



また一人、教師という芸術家。
新たな出会いに感謝です。

それでは、また来月<(_ _)>。